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● 卒業論文にまつわる よもやま話 ●


■ きっかけは太陽電池

 大学3年の秋ごろ、無機化学研究室の助教授から、「今度アモルファスシリコンの太陽電池の研究を始めるから、修士も含めて3年計画で一緒にやらないか」と声をかけられました。私自身、無機系の研究室に行くつもりでしたから、これで決定。今思えば、その後の方向を決める重要な決断であったと思います。
 当時の無機化学研究室は固体表面をテーマとしており、主として粉体への水吸着・固体の水中浸漬に関する研究が進められておりました。その中で助教授はやや独立した形でグループを運営しており、ゼオライトのガス収着が研究の中心でした(ゼオライトの場合、結晶中の微細な孔への吸着ですから、「吸着」と「吸収」の間をとって「収着」と呼びます)。その研究室で新たにアモルファスシリコンをやろうというのです。全く新規のテーマですから1年間でまとまった仕事をするのは困難、ということで、当初から私が修士に進むことを前提にした3年計画だったわけです。さらに言えば、助教授は私がそのまま大学に残る、ということを考えておられたようで、3年どころか、その研究室の一大テーマにする構想であったようです(私もその気は充分にありました)。
 とは言うものの、4年の終了時には卒業論文をまとめなければなりません。そこで、とりあえず研究室の継続テーマであるゼオライトのガス収着を夏休みごろまで集中的にやって、論文を仕上げてしまおうということになりました。これが卒業論文となったわけです。

■ 分子は寝ているか起きているか

 私の卒業研究の主題は、ゼオライトに収着された分子が縦になっているか横になっているか、というものでした。ガスの吸着は、ガス分子と固体表面との色々な作用が合わさった結果ですが、その中でどの作用の影響が大きいかによって、分子が縦になるか横になるかが決まります。研究者によって色々な意見が出されていたので、これに一つの解答を出そうとしたのです。分子が立っていようが寝ていようが、そんなことはどうでもよさそうですが、まあこれも一つの研究。特にガスとして水素を使っていましたので、水素吸蔵に寄与できるかも、などということを漠然と考えていました。
 どこの大学でも似たようなものかもしれませんが、研究資金が少なかったので、道具はほとんど手作りです。バーナーを持って壁にはり付きながらガラスの真空ラインを組み、同じく手作りのガラスカラムに電動あんま機で振動を与えながら充填剤を詰め、市販のガスクロ装置を分解してつなぎ、といった調子です。粉ミルクの缶に石綿を詰めて電気炉を作った時には、初めの焼き出しのときに強烈な匂いが出るので窓の外に本体を出したところ、煙が出ている、といって騒ぎになったこともありました。測定している時間よりも工作している時間の方が長かったようです。私自身は子供のころから工作が好きで、いつもゴソゴソと何かを作っていましたから、これらの道具作りも結構楽しんでやっていました。実際、分子が寝ているか起きているか、ということよりも、このような経験を積むことの方が、少なくとも学部学生の間は重要であると言えるでしょう。

■ 危ない話

 実験の方は順調でしたが、こんなこともありました。ある時、測定を終えて、冷却用の液体窒素から試料管を出して室温に戻るのを待っておりました。私は実験装置に横向きに立って、別の作業をしておりました。数分後、ポンという軽い音と共に、私の目の前を、何かが唸りをあげてすっ飛んで行きました。と、次の瞬間、反対側の壁でパーンという破裂音。一瞬、何が起こったのかわかりませんでしたが、壁際を見ると、木っ端微塵になったガラスコックが・・・(取っ手の部分がかろうじて残っていたので、ガラスコックであることが判別できました)。もう、おわかりでしょう。冷えた試料管内部のガスを抜かないまま温度を上げたために内圧が上がり、空気銃のようにコックを発射したのです。あと10cm前に立っていたら、まともに食らっていました。油断は禁物です。

 「教訓1:真空装置は加圧に弱い」

 また、水素収着の実験は普通は液体窒素温度(-196℃)で行なうのですが、もう一つの異なる温度での実験がどうしても必要で、液体酸素(-183℃)を使うことにしました。といっても、大学には液体窒素しかありません。そこで、酸素ガスを液体窒素で冷却した管内に通し、液化した酸素を集めました。47Lボンベ一本を空にして、ようやく200ccぐらい回収したと記憶しています。その時初めて液体酸素を見たのですが、きれいな淡青色、ちょうど高校時代の修学旅行で見た信州の梓川のような感じで、時期が真夏であったこともあり、非常な涼しげな風情であったのが印象的でした。ところが、この涼しげな液体酸素がとんでもなく物騒なものであることを知ったのは、ずっと後になってからのことでした。もちろん、有機物が混ざると急激に燃焼するということは助教授から注意されていたので、それなりに気を使って実験はしましたが、その数年後に他大学で爆発事故が起こったというニュースを見るまでは、さほど気にしていなかったのも事実です。

 「教訓2:物は性質をよく知った上で使いましょう」

■ 秘密兵器8ビットマイコン

 この研究では、実験のほかにコンピューターを使った理論計算もやりました。研究室にあったのは、発売後間もないNECのPC-8001マイクロコンピューター(当時の呼び名は「パソコン」ではなく「マイコン」でした)。日本中の話題をさらったあの8ビット機です。他の研究室にはまだコンピューターはほとんど入っていなかった時代ですから、まさに光り輝く秘密兵器でした。とはいっても、今から見れば電卓にちょっと毛が生えた程度。起動するとまずBASICが立ち上がり、自分でプログラムを入力しないと何も起こらない代物です。これを使って自分でプログラムを作り、計算させるのです。もちろん大学には大型汎用機はありましたが、しょっちゅうプログラムを修正するのでかえって使いにくく、結局最後までパソコン、いやマイコン頼みでした。
 一回の計算は1日がかりです。午前中にプログラムを組み直して午後にスタート。一晩中動かして、翌朝来るとデータが出ている、という具合です。もっとも初めのうちはプログラムにミスも多く、朝来て見てがっかり、というパターンの連続でしたが・・・。とにかくこのマイコンに毎晩徹夜で働いてもらったおかげで、面白いデータを取ることができました。後になって、こんな噂を耳にしました。「真夜中に誰もいない真っ暗な部屋から、時おりキーンという不気味な音がする」。たぶん私の動かしていたマイコンのプリンターの音だったのでしょう。当時のドットマトリクスのプリンターは独特の大きな音を立てていましたし、鉄筋コンクリートの静まり返った建物の中で反響すると、確かに不気味だったでしょうね。

■ 学会デビュー、そして論文

 研究自体は予定通り夏休み明けには終わり、秋の学会(コロイドおよび界面化学討論会:群馬大学)で発表しました。4年生が秋の学会に出るというのは、周囲を見てもかなり珍しいケースだったようです。さらに学術雑誌に投稿もしました。投稿の作業は助教授が主にされましたが、英語での論文執筆やタイプ打ち(当時はワープロなどありません。一ヶ所失敗したら1ページ丸ごと打ち直しのタイプライターです)、レフリーの審査結果に対する対応など、一通り勉強させてもらいました。このことが、はからずも翌年、助教授が突然に亡くなられた後、残された2つの論文を仕上げることにつながります。



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