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● 博士論文にまつわる よもやま話 ●


■ そこは職人芸の世界

 1985年に電機メーカーの研究所に入ってからほぼ6年間、塗布型ハードディスクの研究開発をやってきました。当時主流であったのは塗布型のディスクで、フロッピーやテープと同じように、磁性粒子を樹脂バインダーといっしょに練り上げ、有機溶媒で希釈して塗料化し、これをドーナツ状の基板(当時は全てアルミでした)にスピンコートして作っておりました(ちなみに現在は、スパッタリングによって基板上に磁性層を形成する方法がほとんどです)。この練り上げる工程が曲者で、ほんのちょっとした加減で全く異なる塗料になってしまいます。その技術たるや、まさに職人芸の世界で、同じ材料と道具を渡しても絶対にマネできない代物です。私が入社した時点で既に20年近い蓄積があり、磨き上げられた職人芸がそこにありました。最先端のエレクトロニクス機器を支えているのは、案外こういった地味な物作りなのです。
 こんなことがありました。私が入った研究所では入社後2年間は研修員という位置付けで、2年後に研修報告会という一大イベントがあります。私の発表が終わり質疑応答に入った時、某部長が、「ウナギ屋は火事になったら秘伝のタレを持って逃げるというが、磁気ディスクの世界にも同じようなことがあるとは知りませんでした」と言われました。まさにその通り。伝説の技だと今でも思っています。

■ 隔世の感

 入社時に私に与えられた仕事は、材料を練り上げて塗料化する工程を改良することでした。何せ2年足らずで記録容量が2倍の新製品が続々と投入される世界です。次々に改良、性能アップをして行かなければ生き残れません。ハードディスクの性能アップの凄まじさは、1985年当時と現在(2004年)のハードディスク装置を比べてみればわかります。私が初めて開発に参加した装置は、記録容量が5GBでした。5GBと聞くとそこそこのレベルと思われるかもしれません。しかし、規模が全く違います。ディスクは1枚が直径14インチ(約35cm)。この巨大な円板が何十枚も入って、洋服ダンスほどの一台の装置を形成しているのです。値段も、正確なところは覚えておりませんが、数千万円したと思います。現在5GBのハードディスクといえば、ポケットにはいる大きさで、数万円も出せば買えるでしょう。この20年の間に、大きさも値段も千分の一になっているのです。
 磁気ディスクの製造をしている工場には、ディスク装置の記録容量の変遷を示したグラフが掲げられています。私が在籍していたころは、グラフの縦軸にはまだ余裕がありました。ところが、つい最近、ある用件でそこを訪問した時には、このグラフは上端を突き破って遥か上方にまで伸びておりました。新しく全体を作り直すのではなく、前のグラフに継ぎ足す形にしているところが、いかにも「予想もできなかった伸びを示しました」という感じで、なかなか面白い演出だと思いました。しかし入社当時はこんなことは夢にも思わず(多少の希望的観測はありましたけど)、まずは次の世代の製品開発に必死になっていた、というのが実情でした。

■ 修行の日々

 配属されて、新人の私がまずやるべきことは職人芸の習得です。この道20年の師匠に弟子入りして(「師匠」、「弟子」という言葉が実によくはまる)、毎日、茶色の粉と、それを練った茶色の塊と、そして磁石にくっつく茶色の液と格闘しました。実験室では白衣を着るのですが、3日もすれば泥だらけ(磁性塗料なんですが、知らない人が見ればただの泥)です。同じ研究所の半導体などの研究室では、体の埃が試料に付かないようにするために白衣を着ますが、ここでは逆。寮に帰って頭を洗うと茶色の水が流れます。それでも非常に面白かった。自分で作っている、という確かな実感がありました。
 磁性塗料は生き物です。時々刻々変化します。ある工程では、攪拌を止めると死んでしまう、ということもあるのです。
 東京に大雪が降った日曜日。突然、寮に電話がはいりました。停電の知らせです。私の管理する磁性塗料製造用の設備には終夜で運転しているものがたくさんあり、停電時には守衛所から連絡がはいることになっているのです。すぐに走って2分で研究所に到着(寮は研究所の目の前でした)。まだ電気は復旧していません。急いで実験室に入り、攪拌装置を手で回すこと30分。ようやく明かりが灯き、装置が自分で動き始めるのを見届けてから帰りました。こんなことが2、3回あったでしょうか。実に手のかかる生き物です。

■ 少しアカデミックに

 このような試作、評価をひたすら繰り返して開発を進めておりましたが、その一方で、学会に出せるような、論文が書けるような研究もやりたい、という希望がありました。職人芸であるということは裏を返せば、客観的な判断基準の無い、ノウハウの塊であるということです。あまりに複雑すぎて、科学的な裏付けを明確にすることが困難なのです。だからといって諦める手はない、ということで、製品開発を進める傍ら、ディスク性能を決める急所である磁性粒子の分散性の研究を始めました。幸い、当時の指導員(研修員の期間は指導員が付きます。前出の師匠です)やグループのリーダーが、やりたいことは何でもやらせてくれましたから、調子に乗って好き勝手をやっておりました。その結果、1989年に最初の論文を出して以来、4年間で6報の論文をまとめることができました。海外での学会発表も経験でき、中身の濃い数年であったと思います。

■ 海外出張でのこと

 初めて海外出張したのは入社5年目のことです。同じ研究グループの人にけしかけられ、その気になって国際学会(イタリア)での発表を申請したら通ってしまった。それからが大騒ぎでした。他に同じ学会に参加する人はおらず、いきなりの一人旅です。せっかくの海外ですから学会だけで終わるのはもったいない、ということで、似たような研究をしているオランダの研究者に手紙を出し、訪問の約束を取り付けました。その他、いろいろな手続きを何とか終えて、どうにか成田へ。ここでちょっといいことがありました。ビジネスクラスで予約していたのですが、空席が出たため、ファーストクラスに繰り上げになったのです。飛行機に乗り込んで周りを見ると、「私はファーストクラスにしか乗りません」という感じの人ばかり。明らかに一人だけ場違いでした(しかも当時のイタリアは政情不安定で、いい格好をしていると狙われる、ということで、古いスーツを着ていました)。ちょっと緊張。しかし、さすがにファーストクラスは快適で、サービスも段違い。眠るのがもったいなくて、寝不足になってしまいました。
 発表そのものは思ったほど緊張せず、比較的好評であったようです。質問の一部が聞き取れず、聞き直して苦労しましたが、イタリア人の座長が横から助け舟を出してくれて、どうにか切り抜けました。その後、オランダに飛んだのですが、アムステルダムの空港に迎えのベンツが来ていました。少々感動。しかし考えてみると、ここではベンツは国産車みたいなものですね。運転手にどのくらいかかるか尋ねたところ、1時間程度とのこと。割と近いな、とその時は思ったのですが、それは日本の感覚でした。実際には200km離れていたのです。
 途中、緑の畑に風車、という絵葉書のような光景を見ながら目的地に到着。ここで思いのほか歓迎を受けました。当の研究者の他に2人が同席して、3時間ほど話をしたでしょうか。私にとっては学会以上に刺激的な経験でした。英会話はそれほど得意ではありませんが、共通の興味があれば何とかなるもの。今振り返ると、その時の議論の内容が、まるで日本語で話をしていたかのように思い出されるのは、議論に集中していたからでしょうか。ここでの議論の中身は、後の学位論文にも生きています。

■ 論文作成へ

 1991年に事業部に転勤になったのを機に、それまでの研究を学位論文風にまとめましたが、その時点では実際に学位を取る動きは起こしませんでした。その後、1993年に初めの会社を退職し、別の会社に移りましたが、そこで一念発起、東京理科大学の増田先生、今野先生にお世話になり、1996年、どうにか論文を完成させました。公聴会には前社時代にお世話になった方々も出席してくださり、昔(といっても数年前の話ですが)を思い出しながら、無事に発表を終えることができました。



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